B級科学者もどきの憂鬱

とある理系になりきれない奴のつれづれなる活動記

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文明発展の方向性

本当はこの記事、昨日投稿するはずだったのですが、
寝落ちてました。すみません。
今回は、文明発展の仕方の話です。

時代が進むにつれ、身の回りを人工物が占める割合が
どんどん増えているように思います。

古代の、自然に大きく依存した社会から、
表面的でも自然の支配を免れた社会へと移行してきたというのが、
文明発展の歴史の大きな潮流であるように思えます。
その結果が現在の、電気や石油に依存する社会でしょう。

当然、どちらにも長所と短所があるでしょう。
だから、単純にどちらの方がいいのか、というのはわかりません。
では何故、こういう流れになったのでしょうか。

自然は、人間が自由にコントロールすることは出来ません。
しかし人工的に作ったものは、基本的に動作目的も使用法も
明確に分かっているので、大抵は自然よりも扱いやすいでしょう。

普通の人間は、変化より安定を求めるはずです。
なので、いつどうなるかわからない自然に身を任せるよりも、
扱い方の分かっている物の中で過ごす方が安心です。
なので、時代を経るにつれ人工物が増えていくのは必然だと思います。

この流れは人間の全時代を通して一貫して見られる傾向なので、
恐らくこの先も、少なくともしばらくは同じでしょう。
未来予測の一つの手掛かりになりそうですね。

今度は人工物の一般的な傾向についてです。
時代を追うにつれ、素材をそのまま使う度合いが
どんどん減っているように思います。

例えば、輸送機械について考えてみます。
古代であれば、丸太をそのまま使った「ころ」が、
もう少し進むと、素材の加工技術の発展から、
「そり」や「車輪」などが作れるようになります。
しかし動力としては、人力や馬など、天然に存在するものです。

ですが、十八世紀頃に蒸気機関が発明され、
蒸気機関車にも使われるようになりました。
この時点で、動力は人工のものに置き換わっています。
しかし、燃料は未だに天然の石炭でした。

今はガソリンエンジンや電気自動車の時代ですが、
ガソリンは石油を分留したもの、電気は発電機によるもので、
少なくとも、石炭よりは人工的に作られたものです。
ここまで来たら、素材そのままで使われている部分は、
もうほとんど無いと言ってもいいでしょう。

また、加工技術に関しても、曲げる、切る、削るなどの単純なものから、
鋳造する、分留するなどの、より複雑なものになっていきます。
大規模化、複雑化の傾向は、現代においてますます加速していますよね。

今見た文明の発展度合いを定量的に測定することが出来たら、
未来的技術の実現に関する予測について、その信憑性を高めるための、
一つの指標になるのではないかと思います。

ただ、どうやって数値化するかは難しいところです。
『その物と同等の物を作るために必要な技術が出揃った西暦』
とか考えましたが、これだと、皮革の加工技術だって進歩しているはずなので、
ワニ革の財布とパソコンが変わらないという変な結果になります。
でも直感的には、『文明度』はパソコンの方が高いように感じますよね。

文明の発展についてはもう少し色々考えたい部分があるので、
また続きを書くかもしれません。

神様の存在は道徳と関係があるか?

今回も正直書くことが無いので、
ずっと書きかけで放置していた考察ネタを、
適当に放流していくことにします。

今回は神様と道徳の話です。
最近、自分は理系のはずなのに、
考察に文系ネタが多い気がしてきました。
理系的なネタもあるにはありますが、
専門用語だらけになりそうで中々出来ないんですよね……。


神様はいるのかいないのか、ということに関しては、
私は正直、どっちだって構いません。

宗教家の方々を馬鹿にするつもりはこれっぽっちもありません。
私というただの一個人の感想です。

考えて分かりそうな事なら、探求したくもなります。
でもこれは、カントなども言っているように、
理屈で証明できるような事ではないという気がするのです。

それに、神様がいようがいまいが、
人が人として生きるために為すべきことに、
何の違いが生まれるというのでしょうか。

もし仮に、神様がいないという事が、
誰の目にも明らかな方法で証明されたとしたら、
神様を信じていた人達は途端に悪に走り出すのでしょうか。
そういう人も中にはいるかもしれませんが、
私は、大部分はそうはならないと思います。

神様がいるから、悪いことはしない、
神様はいないから、悪いことをしてもいい、
これは違うでしょう。
神様のいるいないに関わらず、
やってはいけないことはやってはいけないのです。

個々人の道徳観が重要なのは自明の理です。
そして、どうすれば人がより良く生きられるか、
それは神様の存在如何で変わってはいけないはずです。

なので私は、人がどんな宗教を信じようと、
最低限の道徳観があれば、それでいいと思います。
こんな風にみんなが思えるようになれば、
多分戦争も少なくなるのだろうな……。

さて、現在の哲学では、神様の存在は理屈だけでは
証明できないとされているようですが、
では何故、神様という概念がこの世に存在するのでしょうか。

アニミズムがその発祥にあるのは間違いないと思いますが、
私は、大衆に分かりやすく道徳観を理論づけるために、
もう少し進んだ霊的概念として昔の人が作りだしたもの、
という可能性もあるのではないかと思います。

仲良し度の定量的測定法とその性質

ここ数日、忙しくて更新出来ませんでした。ごめんなさい。
今回の記事は久しぶりの考察カテゴリです。
考察と言いつつ、かなり直感に頼ってしまいましたが、
生暖かい目で読んで頂けると幸いです。

仲良しの度合いを定量的に測るにはどうすればいいだろうか、
測れるなら、それはどんな性質を持つだろうか、
これが今回のテーマです。

牧場ゲームでの村人の好感度や、Twitterのリプライ数から
仲良し度を簡易判定する等の限定的なものはありますけど、
そうではなく、もっと汎用的に適用できる方法です。

ただ、仲良し度をどう定義するか、という点に関して、
万人を納得させられるものが思いつかないので、
ここでは直感的に、ただ親密度が高いとしておいて下さい。

大まかには、コミュニケーションをとっている時間が長ければ、
基本的にはその人達の仲良し度は上昇するような気がします。
もちろんコミュニケーションの内容にも依るでしょうし、
その手段(メールとか電話とか直接会うとか)にも依るでしょうが、
あくまで統計的にこんな傾向があるんじゃないの、という話です。

ただ一緒に居るというのは駄目で、
何かしらのコミュニケーションが必要だと思います。

例えば、中学三年間ずっと同じクラスだったけど、
お互い二言三言しか話したことのないクラスメイトと、
日雇いのバイトでたまたま出会って意気投合して、
その日の休憩時間中ずっと喋りまくった人とでは、
後者のほうが仲良し度は高いんじゃないかな、ということです。

それと、仲良し度の基本的な性質として、
友達付き合いが広く知り合いの多い人と、
人付き合いが苦手で友達が少ない人では、
例え同じコミュニケーション量でも、
仲良し度は違うんじゃないかと思います。

例えば、寂しがり屋なんだけど口下手で、
中々友達が出来なかった地味目な子に初めて出来た、
その子とは対照的に社交的な友達に対してのその子の思う仲良し度と、
その友達が思う地味な子に対しての仲良し度は、
同じ会話量でもやっぱり違うんじゃないかと思うのです。

ので、自分から相手への主観的な仲良し度と、
相手から自分への主観的な仲良し度は、
場合によってかなり違うと思います。

さて、こんな厄介な性質を持っているであろう仲良し度を、
一体どうやって定量的に測定しましょうか。

さっきの例から、仲良し度はどうも主観的なものっぽいので、
第三者から見て判断するのがほぼ不可能ではないでしょうか。
実際の所、行動調査とアンケート調査を組み合わせる、
くらいの方法しか無いんじゃないかと思います。
……全然定量的じゃない気がします。

行動調査は個人情報的な意味でかなり難しいですが、アンケートに関しては、
仲良し度が上がるにつれて許されるであろう行動を箇条書きにして、
あなたがこの人にされても許せる行動はどこまでですか?
というようにすれば一応は可能だと思います。

その際、被験者の性格を予め心理テストで分類しておくと、
アンケートの信頼性は多少上がると思います。
私にはそんな大々的な調査をやるのはちょっと無理ですが。

なお、上に書いたことは、どちらも私が経験的に得たものですので、
裏打ちできるデータも無いですし、信頼性も皆無です。
ので、異議とかあればコメント欄に書きこんで下さると嬉しいです。

重力からエネルギーを得るには

重力は無限にあるのだから、
それを利用して発電できたらいいんじゃないか?
ということを書いていた人がいたそうです。

かくいう私も同じようなことを、
中学入りたての頃に思いました。

もしかしたら、こういうことを考える人って
結構いるのかもしれません。
というわけで今回は、物理学的に矛盾のないように、
重力からエネルギーを得ることについて考えてみます。

熱力学の法則に反しないようにするには、
重力からエネルギーを得る際、
同時に重力の発生源から
エネルギーを奪う必要があります。

重力の発生源は、質量です。
つまり、質量をエネルギーに変えなければなりません。
核分裂や核融合なんかで起こる質量欠損がそうです。

質量を直接エネルギーに変える技術は、
今のところ聞いたことがありませんが、
実は、言わずと知れたブラックホールが、
ホーキング放射という形で行っています。

ということは、ブラックホールを使えば、
重力からエネルギーを取り出せるということになります!
……全くもって現実的ではないですね。

ちなみに、ブラックホールを
エネルギー源にというアイデアは結構昔からあります。
SFなんかにもたまに出てきます。

ですが、質量をエネルギーに変換するのなら、
今のところ、核反応の方がよっぽど現実的です。

とはいえ、もし重力をエネルギー源に出来れば、
ほぼ無尽蔵とも言える燃料(質量)があるので、
エネルギー問題は解決です。

絶対に不可能とも言い切れないので、
将来実現しないとも限りません。
ここは、将来の理論物理学者の皆さんに、
夢を託しましょうか。

「飽き」の特殊性

もし野生動物が、日々の生活に飽きたりしていたら、
すぐに自然界の営みに呑まれてしまう。
だから、「飽き」という感情は、
恐らく人間にしか無いものだろう。

では、何故人間だけが「飽き」を感じるのだろう。
野生動物との主な精神構造の違いは、
理性の存在比重の大きさと、感情の多様さだろう。
これらが原因なのだろうか。

小さい子供は大人よりも、
単純作業を飽きずに続けられる事が多い。
そして情緒の発達は四歳頃までにほぼ完成してしまうため、
感情の多様さが「飽き」に関係しているとは考えにくい。

また、人間が「飽き」を感じ始める時というのは、
あれ、これ同じようなことばかりしていないか、
などと気付いた瞬間ではないだろうか。

逆に言うと、それに気付きさえしなければ
「飽き」は来ないのではないだろうか。
例えば、ドミノを並べるなどのような単純作業時に、
何も考えずただ並べることに集中している間は、
「飽き」は一切来ない。

このようなことから、「飽き」について考えること自体が、
「飽き」の原因である可能性が高いと言える。
またこれは、「飽き」の性質についてかなり説明できる。

例えば、野生動物や子供のように、
思考回路が未発達であれば、
飽きるという考えに至りにくいので「飽き」が来にくい。
「飽き」に個人差があることは、
人によって思考系統が違うため当然と言える。

では、飽きにくくするにはどうすればいいのだろうか。
一つは、他の事は何も考えず物事に集中すること、
もう一つは、別の物事を片手間にやりながらする、
例えば作業用にBGMをかけるなどである。

結論:特に役に立つ結論は得られませんでした。
いつものことか。

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まとめ

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